母の青春

2009-03-18

今日は本当に春めいて、あちこちの桜が膨らんでいる。心もほころぶ。

先月末だったか、ふとテレビをつけたら老齢の女性がでていて、戦時中の話をしていた。前橋女子高校出身者だという。母の出身校だったので、そのまま見入っていると、あの当時学校では勉強ではなく毎日「風船爆弾」を作っていた、というのだ。

風船爆弾は、風船のなかに爆弾を仕掛けて、はるかアメリカまで風に乗せて飛ばすという兵器。その帆や錘にする袋などを当時の高校生が一生懸命作っていた。「何で前女?」と思ったが、多分ばれにくい地域であることと、生糸の生産があり縫製者が多かったことなどがあるのだろう。彼女たちは、学問を究めたくてせっかく入学したのに、時勢の波にもまれ志を阻まれた。

その爆弾は失敗に終わった、とされていたが、アメリカに到着しちゃんと爆発したものがあるのだそうだ。アメリカは、日本の作戦の成功を知らせまいと隠蔽した。

当時を覚えているアメリカ人が、「最初はなんだか、どこからきたのかも全然わからなかった」とコメントしていた。ただ、粗末な帆の材料なのに、きちんと縫われ、接着剤にこんにゃくが使われていて成分がまったくわからなかったそうだ。(こんにゃくも群馬の名産)。その中に何十個もつけられた小さな錘はきちんと裁縫され、全て同じ形で同じ量であり、作品のように美しかったという。

あとで、その爆弾が日本からやってきたことを知り、日本人の緻密さや手先の器用さ、作戦の大胆さに驚かされ、日本人を脅威に感じたそうだ。

アメリカにはすでにコンピューターがあり、コンピューターは爆弾がきちんと目的地に到着し無事爆発するように制御する計算を行うために作られたというのを、初めて就職したコンピューター会社で教わってびっくりしたのを覚えている。(当時、コンサイスにもそのコンピューターの名称が載っていた)

日本は、手計算で風の流れを読み、距離を測り、錘を調節しながらアメリカ全土に到着するように風船爆弾を作って飛ばしていたのだった。

前女の高校生たちは、「お国のため」と一番多感なティーンの時代を、歌うことも笑うことも許されずもくもくと爆弾を作ってすごした、とその女性は語っていた。年齢から見ると、母とほぼ同年代。

風船爆弾のことを話を母から聞いたことはなかったが、自分がすごした時代とは天地の差であり、その後に迎えた空襲や戦後の状況を考えると、女性として一番華々しい時代は過酷の時代だったと今は想像できる。

母は洋裁を行い、私は手作りの服を着せてもらっていたのに、洋品店で売っているものにあこがれた。人と同じものが着たい、と思っていた。今は、申し訳ない気持ちで一杯になるが、流行のものを着たかった、という感覚だった。

母とは何かと葛藤が多かったが、「顔も個性もそっくりな自分」を知り愕然とした時代を経て、ようやく理解できた気がする。

戦争は、原爆で終幕を迎えたけれど、アメリカは今でもこんな小さな国の「風船爆弾」のような日本人を、どこかでまだ恐れているように思えてならない。だから強引に今度は経済で支配しようとしていたけれど、「いいもの」をどんどん作る日本人を巧みに利用しつつ、出過ぎれば潰し、お金ばかり出させようとする魂胆が今は丸見えである。政治的な絡みも、バレバレである。

風船爆弾は、成功した。何のことはない。日本人の真面目さとこまめさと努力する気持ちと、「和」する心が、何も資源のないのにあるものを最大活用して作られたのがこの爆弾だった。この事実から、私たちはこの「知」を使って武器ではないもっと創造的な「何か」を作れるのではないか? 

そういう「芽吹き」や「息吹」を、あらゆる年代の人から感じたいものだ。

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